「村上春樹の文章は炊き立ての白米のようなんだよね」
…と、村上春樹の面白さを説明しても、わかってもらえたことはない。
自分としては、なかなかうまいたとえだと思っているのだけど。
先日、村上春樹さんが初めてラジオのDJをつとめ、お気に入りの音楽や雑談などの披露した。
そのラジオのなかで、村上春樹さんが”自分流の文章の書き方”について語ってくれた。
それを聞いて、なんとなく、なぜ村上春樹の文章は”米”なのかがわかったような気がした。
村上春樹さん流の書き方と、なぜ村上春樹の文章が米なのかを説明したい。
村上春樹の文章炊き立てのご飯説
僕はもともと文章家になるつもりはなかったんですよね。
どちらかと言えば音楽の方に興味があって、それを仕事にしてた人間なんで。
そんな人がとつぜん小説書いちゃって、小説家なったんで。
だれかの小説から小説技法を学ぶというよりは、音楽から入っちゃったほうが近いですね。そのリズムとかハーモニーとか、それからフリーインプロビゼーションとか、なんか書きながらわりにそんなことを意識して、それこそ踊りながらというか。
踊りながらは書かないけど(笑)
フィジカルに書くというのを、すごく、そういう傾向が僕の場合は強いと思います。
だから僕の本を読みやすいと言う人がいたら、そういう人たちとは、わりに音楽的に通じているんじゃないかなという気がすごくするんです。
だから僕は文章の書き方というのは、だいたい音楽から学んだというふうに言っているんですけど。
村上RADIO~RUN&SONGS~より参照
世の中にはハルキストと呼ばれるような熱狂的な村上春樹ファンもいるけれど、「村上春樹なんてつまらない!」というアンチ村上もけっこういたりする。
そしてボクはというと…
中立、といいたいけれど、どちらかといえばアンチ村上よりだ。
村上春樹がノーベル文学賞をとるとかとらないとか騒いでいると、「それほどスゴイ作家なのか??」といつもちょっとした違和感を感じる。
だって、村上春樹の本って面白いか?
面白いのもあるけど、つまらないのもたくさんある。そこらへんにいる普通の作家とそう変わらないじゃないか。
なんで村上春樹ばっかり、世界中で評価が高いのかがいまだにわからない。
ボクの場合「村上春樹がつまらない」というよりも「世間が村上春樹を面白いと思いすぎている」という感じだ。
なんちゅうか、すごくカッコつけた文章で、それがカッコよすぎて、村上春樹を好きになることを躊躇する感じもする。
「やれやれ…」といいながらサッと美味しそうな料理を作っちゃう主人公も気に食わん!
だから「好きな作家ですか、村上春樹ですね」と胸を張って言えない。それよりも「好きな作家ですか、東野圭吾ですね」というほうが遥かにマシだ。(事実、東野圭吾の方が面白い作品をたくさん書いていると思っているし)
学生の頃、村上春樹が大好きな友人がいて、彼に借りて当時出版されていた村上春樹の長編小説をほとんど読んだ。
風の歌を聴け。
1973年のピンボール。
羊をめぐる冒険。
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド。
ノルウェイの森。
ダンスダンスダンス。
国境の南、太陽の西。
ねじまき鳥クロニクル。
それ以降に書かれた作品はほとんど読んでいないし、短編小説や中編小説も読んでいない。
心から面白いと思ったのは、「羊をめぐる冒険」と「ダンスダンスダンス」だけ。あとはたいして面白くなかったし、ストーリーもオチも「何だこれ?」という感じで心に響かなかった。
特に処女作の「風の歌を聴け」なんて、なぜ世間に評価されたのかサッパリだ。
…それでも、村上春樹は面白い。
その”面白さ”を言葉で表現すると、「村上春樹の文章は炊き立ての白米のようなんだよね」になる。ボク的には。
村上春樹の文章は音楽的であり、米的でもある
ごはんってそれほど味がなくて地味なわりに、美味しいし飽きることがない。
なんとなく、パクパク食べ続けてしまう。
それが村上春樹の文章となんとなく似ている。
大どんでん返しが続くエンタテイメント小説を、豪華なフランス料理のフルコースとか松阪牛のすき焼きだとしたら、村上春樹の文章はおかずのないご飯。
美味しいものは飽きるし、食べ過ぎると胸焼けしちゃう。だけど、ご飯はいくらでもいける。(だっておれたちは日本人だから)
村上春樹の文章は、読んでいてストレスを感じないし、スラスラ読めちゃう。まるで炊き立ての甘いご飯のように、スッと頭に入ってくる。
やたらと長くて内容のない長編小説も、ただ文章を読むだけで心地いいとすら思える。
ストーリーなんてあってないようなものなので、極端な話、村上春樹の本を手に取り、パッと開いたページから読み始めても問題なく面白い。
こんな作家は他にいない。
なぜ、こんな風に感じるのか?
そのヒントが、先ほど紹介したラジオでの村上春樹さんの言葉の中にあった。
だれかの小説から小説技法を学ぶというよりは、音楽から入っちゃったほうが近いですね。そのリズムとかハーモニーとか、それからフリーインプロビゼーションとか、なんか書きながらわりにそんなことを意識して、それこそ踊りながらというか。
踊りながらは書かないけど(笑)
村上春樹さんは小説を書くときに、音楽を意識していた。
文章のリズム、ハーモニー、そしてフリーインプロビゼーション(即興演奏)。
村上春樹さんの文章は音楽的であったのだ。
”音楽的に優れた文章”を、ボクのフィルターに通すと”炊き立ての米”になる。別に実家が米農家というわけではないが。
だから僕の本を読みやすいと言う人がいたら、そういう人たちとは、わりに音楽的に通じているんじゃないかなという気がすごくするんです。
ボクは高校時代からギターを初め、10年以上ベーシストとして音楽活動してきた。
なのでわりと普通の人よりは音楽が好きだし、幅広くいろんなジャンルを聞いていると思う。
だけど、村上春樹さんと音楽的に通じている気はまったくしない。
ジャズはBGMとしてはよく聴くけど、「だれそれのあそこのインプロが神がかってるんだよ!」と興奮するほど好きじゃないし、小説に登場するような音楽もまったく好みじゃない。
だけど”リズムを大事にしている”という点では共通しているのかもしれない。(ベースは弦楽器でありながら打楽器なのだ!)
文章というのは、基本的に何かの情報を他人に伝えることを目的として書かれている。
だけど、村上春樹の文章は文章に含まれる情報よりも、むしろリズムを伝えているような気がする。
音楽は歌詞も大事だし、メロディも大事。歌声もアレンジも大事だけど、個人的に最も重要なのはリズムだと思ってる。
だからファンクが好きだし、アースウインド&ファイヤー的な80年代ディスコミュージックも好き。レッチリのようなリズム重視のオルタナティブ・ロックも好きだし、もちろんAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」も好きだ。
最高の”ノリ”があれば、メロディも歌詞も理解できなくていい。
それと同じことが村上春樹小説にも言える。
村上春樹の文章には最高のリズムがあるから、娯楽小説的なきっちりちゃっかりしたストーリーがなくても成り立つ。そんな気がする。
村上春樹さんの文章はすごく音楽的で美しい。
だからこそストレスなくスッと読める。
それが村上春樹人気の秘密なのかもしれない。
1Q84を読んでみた
ちょっと前に、10年以上ぶりに村上春樹の長編小説を読んだ。
「1Q84」だ。
あまり期待していなかったわりに、普通に超面白かった。
だけど、なんだろう、ストーリーがしっかりしている分、音楽的な要素が以前に比べて少なくなっている気もした。
それとも、それはボクが大人になったということなのだろうか?
村上春樹の面白さを理解できるくらい頭が良くなったのか??
村上春樹の小説を読み漁ったのは学生の頃。
だからきっと、村上春樹の面白さの半分も理解できていなかったのかもしれない。
もしかしたら、あの超絶つまらなかった「風の歌を聴け」も、今読みなおせば面白く感じたりして。
とにかくこのラジオを聞いて、「騎士団殺しを読まねばならんなぁ~」と思ったのでした。