ではまず、「正義」についての手がかりとなる超有名な「トロッコ問題」を考えてみよう。
質問1
トロッコが暴走していて、自分はそれに乗っている。線路をそのまま行くと5人の作業員が犠牲になるが、途中のレバーで行き先を切り替えることができる。しかし切り替えた先には作業員がひとりおり、やっぱり犠牲になってしまう。5人を救って1人を犠牲にするか?1人を救って5人を犠牲にするか?どうすればいいのか?
質問2
トロッコが暴走しているのを発見したあなた(トロッコには乗っていない)。暴走トロッコが向う線路の先には5人の作業員がおり、このままでは5人が死んでしまう。目の前にはそれを呆然と眺める超巨大デブが!彼をいますぐに突き飛ばし、その巨体で線路を塞げば、5人の作業員が全員助かる。どうすればいいのか?
質問3
トロッコが暴走していて、自分はそれに乗っている。線路をそのまま行くと1人の作業員が犠牲になるが、途中のレバーで行き先を切り替えることができる。しかし切り替えた先には作業員が5人おり、やっぱり犠牲になってしまう。質問1と似ているけれどもちょっと状況は違う。どうすればいいのか?
質問4
あなたは自分の子ども2人で公園を歩いている。そのとき草むらでカマキリと、カマキリのカマに捕らえられたチョウチョを見つける!今にもカマキリがチョウチョを捕食しようとしているのを発見した子ども。あなたはチョウチョを助けてあげる子どもであって欲しいだろうか?それともカマキリのためにチョウチョを放っておく子どもであって欲しいだろうか?
質問5
あなたには100人の子どもがいる。その中の99人はウソをついたり盗んだり殺したり、とても堕落した性格をしていて、あなたはほとほと困り果てている。だけどたったひとりだけ、あなたのお眼鏡にかなうとっても善良な子どもがいた。あなたはこの世界をより良くするため、たった一人の正しい心を持った子どもを残して、残りの99人を殺してしまおうと思った。この考えは”善”だろうか??
質問3~5は私自身が考えた倫理の問題。
状況はそれぞれにちょっと違うけど、どう行動するのが正しいのか悩む!
どれを選べば”正義”なのか?
なにが”正しい行い”なのか?
どれも答えを出すのが難しい問題ばかりだ。
どういった行動をするのが”本当の正義”なのだろうか?
その答えは「正義の教室」を読めば変わるかもしれない。
今回は正義の教室で紹介された正義について考えてみたい。
たった3つしかない正義の判断基準
飲茶著「正義の教室」を読んでみた。
この本では倫理の授業を担当する風祭先生が、生徒たちに「正義とは何か?」を教えるスタイルで進む青春小説だ。
主人公の正義くん、同級生の倫理ちゃん、千幸ちゃん、ミユウ先輩との恋愛(?)関係も見どころのひとつ。
とても読みやすいので、サクサクと最後まで読めてしまった。
風祭先生曰く、正義の判断基準はたった3つしかないという。
「平等・自由・宗教」の3つだ。
そして「平等→功利主義」「自由→自由主義」「宗教→直感主義」という考え方を展開し、それぞれの正義の特徴や問題点をわかりやすく解説している。
さら最後に、近代に登場した「ポスト構造主義」も登場。
では、それぞれの”正義”についてすっごく簡単に解説しよう。
平等を重視!功利主義の正義
功利主義は「全体の利益の最大化」こそが正義とみなす。
トロッコ問題で言えば、当然、1人を犠牲にして5人を助ける。
社会で生きているのなら、その全体の利益となるのが正しいに決まっている!!
「最大多数の最大幸福」
そんな実に理にかなった正義の形がそこにある。
そんな功利主義も、重大な欠点が2つあるという。
①幸福度の質や量は測れない
お菓子を食べて寝るだけで幸せを感じる人もいれば、働くことに幸せを感じる人もいる。当たり前だけど、幸せは人それぞれ。
哲学者ベンサムは「幸福とは快楽である」と定義したが、だとしたら365日麻薬をやってラリっている人が最高に幸せってことになっちゃうだろう。
②他人への支配が前提となる(パターナリズム)
「正義の教室」では”臓器くじ”という架空の概念でこれを説明している。
健康な人たちの中からランダムで当選した人が、臓器移植を必要とする人のために体中の臓器を提供し、そして死ぬ。
一見、残酷だけど、功利主義的に見れば実に理にかなったシステムだ。
このように全体のために個人を犠牲にしがち、というのが功利主義の問題点のひとつなんだとか。
そもそも…
「利益」と「幸福」をごっちゃにして考えているからわかりにくい。
「社会全体の利益」と「個人の幸福」は必ずしも両立しないんだから、功利主義でみんなが幸せになれるわけないよね。
自由こそ正義!自由主義
あらゆる権利や義務よりも「自由」を最優先するのが自由主義。
自由主義では他人の自由を邪魔するすべてが悪となる。
逆に言えば、他人の自由を侵害しない限りなにをやってもOKという、自由過ぎる考え方だ。
問題点は、とにかくすごい格差社会になるってこと。
個人の幸福、社会の利益よりも、自由であることを優先すること。
自殺すらも”個人の自由”となりえちゃうこと。
などが挙げられる。
宗教的な正義!直感主義
人を殺してはいけない。
人のものを盗んではいけない。
こう考える”正義”は直感でわかる。
なぜなら完全な正義という概念が存在するからだ!!
…これが直感主義的な正義の在り方。
宗教のように”正義”を信じるから宗教的な正義と呼ばれるのであって、キリスト教や仏教、イスラム教などの正義の概念は関係ない。
直感主義者にとっては、状況や立場によって「正義」の概念がかわるというのはありえねい。
たとえば、いついかなる状況でも”嘘”は悪ということになる。
ある日突然、家に強盗が入って自分が拘束されてしまったとしよう。
強盗に「金はどこにある?ほかに家族はいるか?いるならどこにいる?」と聞かれたとしよう。
絶対に嘘はいけないと信じる直感主義者は、正直に金目のものの場所や家族のいる部屋や人数を答える。
たとえその結果、家族が殺されることになっても。
この融通の利かなさが宗教的な正義の問題点。
さらに最大の問題点として、そもそも「絶対的な正義」が存在するとして、それをちっぽけな人間が直感することは不可能であるというものがある。
構造主義における正義
風祭先生は3つの正義の問題点を挙げた後、最新の哲学である構造主義を紹介する。
人間の考え方や正義なんてものは、「構造」に支配されているんだ!!
…なんて考えるのが構造主義の正義。
構造というのは人間を取り巻く社会や環境ぜんぶ。
自分の信じる正義は、今まで生まれ育った家族や友人、学校、国家などの影響で作られているわけで、違う環境で育った人とは違くなるよね~って話。
日本の一般的な家庭に育った社会人。
インドカーストのバラモンに属する長老。
江戸時代の武家のひとり息子。
アマゾン未開の地の部族の青年。
大金持ちの起業家からアメリカ大統領に転身した老人。
内戦が続く国に育った少女。
それぞれに人間を形作る構造(環境)がまったく違うので、当然、違う考え方を持ち、違う正義を持っている。
だからこそ、正義と正義がぶつかって争いごとが起きちゃう。
もし直感主義のように「絶対的な正義」なんてものがあるのならこんなことは起きない。功利主義や自由主義が完璧に機能していても、争いは起きないだろう。
風祭先生はコップと水の比喩表現で構造主義をわかりやすく解説している。
コップに水を灌ぐと、水はコップの形に変化する。
水が私たちで、構造はコップというわけだ。
正義の教室で正義くんが出した結論
いろんな正義の形に触れた主人公の正義くんは、最終的に「正義という問題に答えを出してはいけない」と悟る。
他者の視線に関わりなく、正しくありたいと願い、迷いながらも自分なりの「善い」を、「正義」を目指して生きていく!
そうやって生きることこそが、監視社会というこの巨大な刑務所から抜け出す方法であり、「僕たちが自由に幸福に生きていく唯一の方法」なのではないでしょうか!
…と、生徒会長である主人公は全校生徒の前で演説しちゃうわけだ。
そうして正義の教室はとんでもない”オチ”に向かうわけだが…。
そのオチは実際に正義の教室を呼んで楽しんでもらいたい。
きっととても考えさせられるだろう。
わたしが考える正しい正義について
正義の教室を読むにあたって、やっぱりまず「自分が持っている正義観」というものが明らかになってくる。
「自分の持つ正義観って正しいのか?」
そう考えながら読み進めてみると…
功利主義、自由主義、直感主義が登場したあたりで、「おれは直感主義が近いかな~」と感じた。
でも直感主義の内容が説明されると「直感主義は違うな」となり、構造主義の説明を聞いて「やっぱ構造主義なのかな」という気もしてきた。
最終的には、直感主義と構造主義の中間的な正義観を持っている気がしている。
最初の質問について答えよう。
質問1
トロッコが暴走していて、自分はそれに乗っている。線路をそのまま行くと5人の作業員が犠牲になるが、途中のレバーで行き先を切り替えることができる。しかし切り替えた先には作業員がひとりおり、やっぱり犠牲になってしまう。5人を救って1人を犠牲にするか?1人を救って5人を犠牲にするか?どうすればいいのか?
わたしの答えは「レバーを切り替える」だ。
だって、目の前の5人を助けたいと思うから。
質問2
トロッコが暴走しているのを発見したあなた(トロッコには乗っていない)。暴走トロッコが向う線路の先には5人の作業員がおり、このままでは5人が死んでしまう。目の前にはそれを呆然と眺める超巨大デブが!彼をいますぐに突き飛ばし、その巨体で線路を塞げば、5人の作業員が全員助かる。どうすればいいのか?
わたしの答えは「デブの背中を押さない」だ。
いや、なんも悪いことしてない人を突き落とすことなんでできないでしょ。
殺人罪に問われるかもしれないし。
質問3
トロッコが暴走していて、自分はそれに乗っている。線路をそのまま行くと1人の作業員が犠牲になるが、途中のレバーで行き先を切り替えることができる。しかし切り替えた先には作業員が5人おり、やっぱり犠牲になってしまう。質問1と似ているけれどもちょっと状況は違う。どうすればいいのか?
わたしの答えは「レバーを切り替える」だ。
だって、目の前の人を助けたいから。
その結果、他の誰かが犠牲になっても、目の前の人を見殺しにはできない。
質問4
あなたは自分の子ども2人で公園を歩いています。そのとき草むらでカマキリとカマキリのカマに捕らえられたチョウチョを見つけました。それを発見した子ども。あなたはチョウチョを助けてあげる子どもであって欲しいでしょうか?それともカマキリのためにチョウチョを放っておく子どもであって欲しいでしょうか?
もし自分ならと考えると、あるいはお腹を空かしたカマキリのためチョウチョを放っておくかもしれない。
だけど、純粋な子どもなら「チョウチョを助ける」であって欲しいな。
質問5
あなたには100人の子どもがいます。その中の99人はウソをついたり盗んだり殺したり、とても堕落した性格をしています。あなたはこの世界をより良くするため、たった一人の正しい心を持った子どもを残して、残りの99人を殺してしまおうと思いました。この考えは正しいでしょうか?
これはまあ、旧約聖書の神様が元ネタなんだけど。
ぜったい99人殺すなんてしないよね。
神様は善なのか?
わからないが、神様は徹底的な功利主義者なのかもしれない。
”正義”は結果ではなく過程(気持ち)が大事なんじゃないかなと
正義に関する5つの質問の答えに一貫しているのか、「自分の気持ち」だ。
この正義を説明するには、たまに2時間ドラマの殺人事件に登場する「未必の故意による殺人」がわかりやすいかもしれない。
未必の故意
確定的に犯罪を行おうとするのではないが、結果的に犯罪行為になってもかまわないと思って犯行に及ぶ際の容疑者の心理状態。殺人事件の場合、明確な殺意がなくても、相手が死ぬ危険性を認識していれば、故意として殺人罪が適用される。
参照元:未必の故意(コトバンク)
例えば階段にとても滑りやすいオイルをこぼしてしまったとしよう。
このままでは誰かが滑って転がって死んでしまうかもしれない。
でも拭くのめんどくさいからこのままでいいや!と放置したとしよう。
その後、ホントに誰かが滑って転んで死んでしまったら?
明確な殺意がなくても、相手が死ぬかもしれないと認識していたわけで、オイルをこぼしちゃった人には殺人罪が適用される。
だいたい刑事ドラマでは殺したい相手の周辺に、死ぬかもしれないし死なないかもしれない偶然の罠を仕掛け、相手を殺しちゃう。
そうして殺意はなかったと否定するけど、主人公に殺意があったと証明されちゃうわけだ。
ポイントは「人が死んだ」という”結果””ではなく、「殺意があったかなかったか」で量刑が変化するってとこ。
言い換えれば、結果よりも気持ちの方を重視していることになる。
これを正義の話に適用してみる。
トロッコ問題で大事なのは、ひとり死ぬか5人死ぬかではない。
ただ瞬間的な「目の前の人を助けたい気持ち」がいちばん大事なのではないか。
それが正義なのではないか、ってこと。
暴走しているトロッコに乗っていて、目の前に1人いるとしてスイッチ切り替えでその人が助かるのなら、その先に5人いようが崖になっていようがスイッチを切り替える。
その「目の前の人を助けたい気持ち」こそが正義なのではないだろうか。
ちょっと直感主義と似ているけど、ぜんぜん違う。
誰かを助けるために嘘をつくのも正義かもしれないし、みんなを助けるために凶悪殺人犯を殺しちゃうのも正義かもしれない。
自分の性格や判断基準は、自分が生まれ育った社会のシステム(構造)の影響を受けざるを得ないからしょうがない。
べつにポスト構造主義とか、そんな難しい単語を持ち出さなくてもいい。
自分が生きてきた構造(システム)によって作られた自分なりの道徳を基準とした直感的な善悪判断。
これが「正義」なんじゃないかなと。
大事なのは結果ではなく気持ち。
先ほどの「カマキリに捕らえられたチョウチョ」の問題を考えてみよう。
(普通に蝶々を助けたいけど、カマキリだってお腹空かしているかもしれないしな~。いや、もっと広い視野を持とう。世界的な食物連鎖のバランスを考えると、こういった食べる食べられるという関係に人間が手出ししてはいけないのでは…)
な~んて、ごちゃごちゃと考えない。
カマキリの事情とか、食物連鎖とか、そんなの関係ない。
今まさに消えようとしている命を純粋に助けてあげたいという優しい気持ちが大事な気がする。
まあ人生色んな思想を持ち合わせた人がいるだろうけど、そんな優しい気持ちがベースのところにあるべきかなと。
それが正義なんじゃないかなと、そう思うわけです。
正義=ジャスティスなのだろうか?
それにしても、なぜこうまで正義の問題が混乱するのかというと、哲学者の考えが極端すぎるからな気がする。
まあ、物事を突き詰めて考えるのが哲学者の仕事なわけだからしょうがないけど。
でも極論ばっかりが求められる世界でもないし、ちょうどいい塩梅の正義があるきがする。
たとえばプライド(pride)という英単語は「自尊心」とか「誇り」って日本語に翻訳するけど、それぞれに意味がちょっと違う気がする。
それと同じように、justiceという英単語を「正義」と訳するのにはちょっとした違和感を覚える。
なんとなくだけど。
JUSTICEという英単語は古いフランス語の「juste」が語源なんだとか。
justeは英語のjastにも繋がる言葉で、「ちょうどいい」というニュアンスを持った単語。
つまりジャスティスは極端な思想ではなく、中庸的な、社会の中のちょうど良い場所にあるのではないだろうか。
それぞれの時代や社会で変わる規範やルールというモノサシ(構造主義)のなか、ちょうどいいジャストフィットな場所を選ぶ。
それがこそがジャスティス(正義)なのかもしれないね。