自己啓発 雑学

宗教を信じると幸せになれるのか?窮屈な社会で自由に生きるための方法

若いころ、バイト先に某超有名宗教団体の信者がいた。

彼は何故かわたしに熱心に勧誘をしかけてきた。

祈れば願いは叶うんだよ!

みたいな。

 

今なら「そうなんだ~すごいね!」でサラリと流すところ。

だけど若かりし日のわたしは”宗教”というものにイマイチ納得できず、真面目に討論を開始した。

「毎日祈って目標を明確化していれば、そりゃあ祈らない人よりは願いが叶う可能性も高くなるかもしれない。けど”祈ったから願いが叶った”ってのとは違うんじゃあないのかね」

みないな。

 

そんな青臭い意見をいくらぶつけても、もちろん相手の心には響かない。

いくら話し合っても彼の宗教観を崩すことはできなかったし、頭の固いわたしの考えもまったく変わらなかった。

「自分が他人を変えられる」なんて傲慢な思い違いをしていたわけだ。

それに宗教を信じていて、当人が幸せならそれでいいじゃないか。

 

それにしても…

宗教ってそんなにいいものなのだろうか?

無神論者で信じる宗教もないわたしにはイマイチわからない。

 

わたしと同じように無宗教・無神論者が多い日本人にはよくわからないだろうけど、世界には厳格に宗教の規律を守って生活している人たちがいる。

そんな宗教や神様を信じている人は幸せなのだろうか??

いろんな規則やルールに縛られて不自由じゃないのだろうか??

人間は自由を求めるはずなのに、なぜがんじがらめの教義がある宗教があるのだろうか??

宗教を信じている人と信じていない人のはどちらが幸せなのか調べた研究

自身が厳格なシーク教の教徒であるコロンビア大学のシーナ・アイエンガーが「宗教の厳格さと人生観」について面白い研究をしている。

まず、宗教を教義の厳格さで3つのカテゴリーに分類する。

めちゃくちゃ厳しい原理主義的宗教:カルヴァン主義・イスラム教・正統派ユダヤ教

保守主義的宗教:カトリック・ルター主義・メソジスト派・保守派ユダヤ教

規則も少なく自由な宗教:ユニテリアン主義・改革派ユダヤ教

そしてその信者たちに、3種類の調査を行った。

 

①戒律の厳しさが生活に与える影響

②自分の楽観度

③精神的な健康度

 

その結果は驚くべきものだった。

戒律が厳しく、食べるものも服も、結婚相手すら自由に選べない原理主義的宗教の信徒は、他の宗教の信徒に比べて楽観度が高く、メンタルも健康だったのだ。

逆に自由な宗教の信徒や無神論者は、悲観的で落ち込みやすく、うつ病にかかっている割合も高かったとか。

 

つまり宗教を信じていない人よりも熱心に信じている人の方が明確に幸せなわけだ。

 

かつて熱心に宗教の勧誘を受けたわけだけど、彼はけっして悪い人ではなかったし、純粋で善良な人間だった。

確かにキラキラした目で教義を語る彼はとても幸せに見えた…。

(まあ、熱心に何かを信じることで何かを誤魔化しているという感じも同時に受けたけど)

 

でも「信じるものは救われますよ~」なんていわれても、生まれてこのかた無神論者の人にとっては「え~、宗教とか堅苦しくないですか?」と思っちゃう。

 

厳しい戒律のなかで幸せになるよりも、自由の中で幸せを勝ち取りたい!

人に決められる人生よりも、自分で選ぶ人生を送りたい!

その結果が良かろうが悪かろうが、それを自己責任としてすべて受け入れたい!

靴下の色も、指輪の色も、唇の色さえも神様に決められるなんてまっぴらごめんだ!!

信じる者しか救わないセコイ神様なんて拝みたくない!!!

絢爛たる奴隷生活の平穏無事な軛(くびき)よりも、苦難に満ちた自由をこそ選びたい!!!

 

…と、そう思うのが自由に満ち溢れた無神論者の言い分だろう。

無神論者は本当に自由なのだろうか??

いきなりだけど、あの有名な神とサタンの対立、そしてアダムとイブの楽園追放のお話を見てみよう。

神様の使いである天使の中もでも、もっとも偉大が大天使ルシファーは、ある時神に対しに謀反を起こした。

「なんでもかんでも神のいいなりなんてまっぴら後免だ!オレは自由を手に入れる!!」

そうして大天使ルシファーは堕天使となり悪魔サタンとなった。

自由を勝ち取るために神へ戦いを挑むも、そこは創造神、いくら元大天使とはいえボッコボコに負けちゃう。

そこでサタンは作戦を変え、神に愛された人間の男女アダムとイブを誘惑する。

ヘビに化けたサタンに言われるがまま、楽園に生えた禁断の果実を口にした2人。すると彼らは自我に目覚め、急に自分が裸であることを恥ずかしく感じてイチジクの葉で腰を覆った。

ブチ切れた神様は2人を楽園から追放したという…。

神様のもとで平穏無事にな~んにも考えずにぼけ~っと生きてきたアダムとイブ。

これはもう、神様のお気に入りのペットと言ってもいいかもしれない。

 

これは自由か?

確かに平和かもしれないけど、すべてを神に決められた人生ってどうなの??

 

…という信念のもとサタンが「お前たちもこっち側にこいよ?」と誘惑しちゃうわけだ。

でもさ、サタン側が提唱する”自由な世界”ってのは本当に自由なのだろうか?

だってアダムとイブは禁断の果実を食べて知識と自我を身に着けた結果、羞恥心からイチジクの葉を身に着けるんだよ。

 

「何かを着る」って思いっきり「ルール・束縛」の象徴だよね。

 

神様の楽園で素っ裸で自由に過ごしてたのにさ。

素っ裸ってすげえ、自由だよ。

それがサタンに誘惑された結果、服を着なくちゃいけなくなったんだよ。

 

宗教を熱心に信じることは教義に縛られた人生を送ることになるわけだけど、無神論者は無神論者で何か別の、そしてもっとタチの悪いルールに従って生きなきゃいけないわけだ。

 

神様の楽園にいたらいたで、厳格な神様のルールに従って生きなければならない。

サタンが導くカオスの世界でも、自由に生きれるわけじゃないし、何らかのルールがある。

 

じゃあどうすればいいのだろうか?

無神論者はサタンになるしかない

いきなりだけど、ジャズの話。

まあ、ジャズよりもロックやファンクが好きなので、あくまでも”ジャズのイメージ”で語りますが。

 

ジャズは普通のロックやポップスよりも難解なコード進行を使いまくるし、インプロビゼーション(アドリブ演奏)もめちゃくちゃやりまくる。

音楽理論を1小節ごとに拡大解釈し、全体で見ると不協和音になるような音もバンバン使って、とっても自由に演奏してる。

その理由は、きっとジャズプレイヤーがめちゃくちゃ音楽理論を知っているからだと思う。たぶん。知らないけど。

 

当たり前すぎて意外と知らないかもしれないけど、ルールを自分の意志で破るにはそのルールをよく知らなければいけない。

 

音楽理論をまったく知らない人が演奏したら、そりゃあヘタクソで聞くに堪えないプレイになるだろう。

使う音階もムチャクチャで、不協和音が人を不快にする。

 

音楽理論をちょっと知っている人間が演奏したら、そりゃあ退屈なプレイになるだろう。

ハ長調でドレミファソラシドしか使わない、みたいな優等生的演奏。

これじゃあ、人を感動させられない。

 

でも音楽理論を熟知したベテランが演奏したら、わざと理論を逸脱したスリリングなプレイが出来るだろう。

不協和音のギリギリを狙って、最低限のルールを踏まえつつ、自由奔放に演奏できる。

 

神が音楽理論(ルール)だとしたら、サタンは最高のジャズプレイヤーなのかもしれない。

だって、サタンはもともと神の元で最も優秀な天使だったのだから。

 

そしてただぼ~っと生きてる無神論者のわたしは、ただ不協和音しか奏でることができないヘッポコプレイヤーというわけだ。

ルールの上でフラフラ・フラダンス OR 宗教

この日本で、本当に自由に、幸せに生きるにはどうしたらいいのか?

そのためには、法律や習慣や常識などの身の回りのルールを、まずしっかりと知らなければならない。

そして、どれだけそのルールが厳しかったとしても、最終的な決定権が自分にあることを知る。

(気分が落ち込んでいたりつうつになると視野が狭くなって自己決定権を信じられなくなるけど、会社をサボってその日のうちに飛行機でハワイに行ってフラダンスを踊るような”可能性”を私たちは持っている)

 

厳しいルールにがんじがらめになって、身動きが取れなくなっちゃうのではなく、

厳しいルールの上で、フラフラと危なっかしく、紙一重で自由にダンスする。

それが本当の自由であり幸せなのではないだろうか。

 

もしそれが難しいのなら…

宗教は長い歴史の中で、善良で合理的なルールがパッケージ化されている。

日本ではオウム真理教の事件以降、すっかり宗教へのイメージが悪くなったけど、宗教は洗練されたとても素晴らしいものであるのは確か。

そんな宗教を熱心に信じてみるのが、幸せへのいちばんの近道かもしれないね。

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