ヤフー知恵袋の質問で「うっせーなー、てめぇ。死ねや!」を敬語でいうとどうなるのか?というヘンテコな質問があった。
たしかに、どうなるのか気になる。
面白いので、その優秀な回答を紹介したい。
うっせーな!てめー死ねや!を敬語で言ってみよう!
「うっせーな!てめー、死ねや!」をどの様に敬語にすればいいのか?
そこに寄せられた秀逸な回答を紹介したい。
- たいそうにぎやかなご様子でいらっしゃいますところまことに恐縮でございますが、ご逝去あそばしていただければ幸甚に存じます。
- 閣下お静かに。閣下、死をもって償ってください。
- 貴殿の御言葉が少々耳に障りますが、貴殿は急逝をお望みか?
- おだまりなさい!あなた、死しさらしませ!!
- 騒がしいです、貴方、今日が命日になりますよ!
- 耳にタコができました、眠ってくださいませんか!
- 静粛にしたまえ。さもなくば君には、その罪をその命で、償っていただきたいが、どうかね?
- うっせーですよ、てめぇ様。死んでくだせぇますか!
みんな面白いね。敬語や丁寧な表現だと逆に怖かったりして。
それにしても、「死ね!」という下品な言葉は、結局のところ敬語に出来るジャンルのものではないようだ。
そこで活躍するのが意訳だ。
この言葉を意訳するとどうなるだろう?
敬語に変換するのではなく、文学的に意訳してみる
文章をそのまま訳することを「直訳」、文節の意味やニュアンスを伝える為に、元の分に囚われずに上手に訳することを「意訳」と呼ぶ。
上記のヤフー知恵袋の回答には正確に敬語に変換を試みようとするパターンと共に、同様の意味で違う表現をする意訳の回答もあった。
夏目漱石が「I love you」を「月の綺麗な夜ですね」と意訳したのは有名な話だ。
二葉亭四迷は「I love you」を「わたし死んでもいいわ」と意訳したという。こっちの方がわかりやすいし、心情も伝わる。
「月の綺麗な夜ですね」と言われて「うわっ!告白された!」と思う人は、いろんな意味で先走り過ぎの性格なのではないだろうか。
そんな人は「ラーメンはやっぱり豚骨ですね」とか「今日はなんだかいい風が吹いてますね」とか「コーヒーに砂糖入れますか?」なんて何気ないセリフでも、いろんなとんでもない誤解をしそうで怖い。(実際いるよね、こーゆー人)
それは置いておいて、ではこの「うっせーな!てめー死ねや!」をロマンチックに意訳してみるとどうなるのだろうか?
漱石先生の言い回しを参考にすると、こうなるのではないだろうか。
「口は災いの門ですから気を付けてくださいね。月夜の晩だけではありませんよ」
「うっせーな!てめー死ねや!」は、「うるさいなぁ~」と言う部分と「ぶっ殺すよ~」という部分の、ふたつの文脈に分かれる。
なにかをごちゃごちゃと言われてうるさい、黙っていてほしい、そんな時の相手に対する婉曲的かつことわざ的な指摘方法として「口は災いの門(もと)ですよ」という表現。
そして漱石先生の「月の綺麗な夜ですね」に対して、同様にロマンチックな表現として「月夜の晩だけではありませんよ」という表現。
月夜の晩は明るいけれど、そんな夜ばかりではない。月の出ていない暗い夜は、夜道で襲われないように気を付けてくださいね(闇夜に紛れて襲いに行きますよ)、というなんとも日本的な奥ゆかしい暗殺宣言だ。
では次に、「わたし、死んでもいいわ」と意訳した二葉亭四迷的に、「うっせーな!てめー死ねや!」をシンプルに意訳してみる。
「君、死んでもいいよ」
これも、なかなかに怖い!有無を言わさぬ迫力がある。
それにしても、日本語表現の多様さときたら、もう凄いね。
日本語って難しいね
現代の日本人は、ちょっと前の日本人よりも文章を書く機会が増えている。
メールやライン、フェイスブックやツイッターにブログ…。
そんな文章でのコミュニケーションで、相手に誤解されてしまったこともあるのではないだろうか。
心理学に「メラビアンの法則」と言うものがある。
人がコミュニケーションの際に参考にする要素を示した法則だ。
視覚情報 55%
聴覚情報 38%
言語情報 7%
というもの。我々は面と向かって話しているときに、話してる内容なんてのはほんの7%くらいしか重要視していない。相手がどんな態度なのか?話し方は?そんな情報の方がコミュニケーションには遥かに大事なのだ。
アルバート・メラビアンさんの示した法則だけれど、もし日本人に当てはめたとしたら「視覚情報58%・聴覚情報41%・言語情報1%」ってくらいになってしまうのではないだろうか。
それくらい日本って「察する」文化があるよね。
メールやラインでの文章だけのコミュニケーションは、圧倒的に情報量が少なすぎるといっていい。だから、面と向かったコミュニケーションと同じ感覚で行うと、特に日本人は互いに誤解しやすいのかもしれない。
冗談でいったものが本気にされてしまったり、意味が伝わらなかったり。
視覚・聴覚の情報不足の中で、さらに「月が綺麗な夜ですね」なんて言われたらもうわけがわからなくなるに違いない。
ひとつの文章が、たくさんの形で表現できる。
ダイレクトに、奥ゆかしく、シンプルに、暗喩的に…日本語と言うのはなんとも奥が深く、あたかも移り変わる四季のいろどりの様に美しい。
しかしながら今の世の中、もし「うっせ~な~も~死ねよコイツ」と思ったら、敬語にしたり意訳したりせずに素直に「うっせーな!てめー死ねや!」とにらみつけるのが、正しい日本人としての在り方なのかもしれない。
なんとも風情に欠けるけどね…。