親ガチャとは”子どもは親を選べない”というランダム要素を揶揄した言葉。
「おれの人生がこんなに悲惨なのは親ガチャに失敗したからだ!!」
なんて、自分の人生を親に責任転嫁にするときに使う。
「あいつが成功したのは親ガチャに当たったからだ!!」
なんて、他人の成功に対して自己正当化するときにも使う。
そんな親ガチャという言葉なんだけど、なかには
「親なんて関係ない!努力すれば成功できる!!親ガチャなんて言ってるヤツは甘えだ!!」
なんて、タフな考え方を持った人たちもいる。
人の人生は親ガチャで悲しいほどに左右されてしまうのか?
それとも人は自分の人生を自力で切り開く力を持っているのか?
最新の研究によると、どうやら人生ってやつはかなり辛口のようで、親ガチャは正しいみたいだ。
なんと親の年収が低い子どもは学習能力も運動能力も低くなるという。
世帯収入については、高学年を除く学年段階において、体力総合点に有意な差が認められました。特に低学年と中学年の段階において、世帯収入の違いによる体力の差、すなわち低収入家庭の児童よりも高収入家庭の児童の方が体力総合得点は高いという傾向が顕著です(なぜ高学年で有意差が確認されなかったのかについては、さらなる検証が必要です)。
また、学年進行に伴う一貫した傾向は見られませんでしたが、年収400万円未満の家庭の子どもが、高所得家庭のグループに比べて明らかに体力が低いということは共通しています。
こちらの記事の要点をまとめると…
- 世帯収入による子どもの学力差については、世界各国の研究によって揺るぎない事実として認められている。
- 今回の研究で、学力だけでなく運動能力でも同じような差があることがわかった。
- 学力の低い子どもは運動能力も低い傾向になり、これは学年が進むごとに顕著になる。
- 小学校では”スポーツができる”ことがスクールカーストを決定する重要なファクターとなっている。
- 中学年以下の小学生は、親の”年収”と体力が比例している。
- 中学生以降の子どもは、親の”学歴”と体力が比例している。
- 保護者に友達が多いほど子どもの体力は向上する。
こんな衝撃的な事実が浮かび上がる。
ちなみにこの研究では「なぜそうなるのか?」までは踏み込んでいなかった。
親の年収が低い、親の学歴が低いと、子どもの学力も運動能力も低くなる。
理屈ではなく、とにかくそうなるのだ。
また、親ガチャには外見の遺伝的な要素も含まれる。
容姿端麗な両親からは、容姿端麗な子どもが生まれる。
容姿が美しいだけで就職の面接で有利だったりするし、見た目の優劣が生涯年収でも大きな違いが現れるのは他の研究でも示されている。
①学力
②運動能力
③容姿
これらの人生を左右する重要なステータスが、そのほとんどを親ガチャで決められているとしたら…?
もう親ガチャが正しいと言わざるを得ないだろう。
悲しすぎる事実だ。
親ガチャで失敗してしまった場合の対策
では、年収や学歴が低い親の元で生まれてしまった場合、どうすればより良い人生が送れるのだろうか?
もっとも楽で、
もっとも効率がよく、
もっとも成功する可能性を高めてくれる、
その方法とは…
目標を設定し、それに向かって努力する。
ミモフタモナイが、それが理論的で合理的な回答だ。
努力をしないでよい人生を送るためにはめちゃくちゃな幸運が必要。
それは楽じゃないし、効率は悪いし、確率も低い。
努力した方がはるかに楽だし効率もいい確率も高くなる。
なぜ、学力や体力で子どもが親の影響を受けるのか?
半分はもともとの遺伝的な素質もあるのだろうが、半分は環境にある気がする。
経済的に恵まれていると、習い事でスポーツや勉強をしたりする機会が増える。
その経験が学力と運動能力の差となって現れる。
親の影響が圧倒的な子ども時代はしょうがないにしても、高校生以降になれば親離れも進むし、自分の決断がそのまま自分の人生に反映される。
20歳以上の大人ならなおさらだ。
親の影響を離れ、自分で自分をコントロールすることができれば、親ガチャの呪縛から離れることもできる。
もちろん人生は目標達成とか、努力とか、成功とか、そんなものだけが大切じゃない。
どんな環境であれ、今の自分を受け入れて満足することができれば、それが一番いいだろう。
親ガチャは存在する。
それに、親ガチャを乗り越えるためにどれだけ努力しても成功するとは限らない。
ウサイン・ボルトと同じ練習メニューをこなしてもオリンピックの陸上で金メダルをとることはできないし、アインシュタインと同じように勉強しても物理学でノーベル賞を取るのも難しい。人それぞれに個性や才能は違うのだから。
それでもなお、努力するのが一番楽な道だ。
人類の歴史を見ても、現在は親ガチャの影響が少ない時代なんだから。
親ガチャは残酷なまでに事実だ。
だけど、自分の人生を決める自由も、残酷なまでに自分自身にあるのではないだろうか。