いまさらながら、大ベストセラー「嫌われる勇気」の続編である「幸せになる勇気」を読んでみた。
「え、幸せになるのに”勇気”って必要なの??」
と、私を含めてほとんどの人が思うだろう。
”勇気”ってのは困難なことに立ち向かう時に必要な、タフなくじけないハートのことだよね。
たとえば粒あんのまんじゅうを食べることが幸せな人にとっては、「まんじゅうを食べる勇気」なんて必要ない。
まんじゅうがあれば、むしゃむしゃ食べる。
(甘くておいし~い!幸せ!!)
それだけだ。
では、アドラー心理学でいうところの「幸せになる勇気」とは?
じっくりと読んでみて、ギュッと1行の”公式”にまとめるとこうなる。
幸せになる勇気=(自分を愛する勇気→人を愛する勇気)=自立する勇気
…これだけじゃあ、イマイチわかりずらいので少し補足しよう。
まずはここでの幸せの定義について。
アドラー心理学的な”幸せ”の定義は明確で、それは「他者貢献」ってこと。
けっして”まんじゅうを食べること”ではない。
他人でも地域社会でも人類全体でもいいから、誰かに貢献することこそが人間にとっての幸せってわけだ。
(他者貢献が幸せという考え方そのものに納得できない人もいると思うけど、これにはいろんな裏付けがある。詳しくは本書を実際に読んでみて欲しい)
次に自立の定義。
アドラー心理学的な自立とは「愛されるためのライフスタイルを脱却すること」を指している。
ライフスタイルとは”価値観”のことと思っていい。
基本的に人間はこどもの頃に、自己中心的な「愛されるための価値観」を持つようになる。
なぜなら、こどもは自分という存在が圧倒的に弱く、親に育ててもらう必要があるから。
だからこそ生存戦略として”愛されるためのライフスタイル”を選択せざるを得ない。
それは”いい子”でいることかもしれないし、反抗し、悪さをして注目を集めることかもしれない。
おどけて家族を笑わせること、おとなしくしていること、スポーツを、勉強を頑張ること、それらも全部、目的は一緒。
つまり「他者から注目を集めたい!愛されたい!」という思い。
そんな自己中心的な価値観が”愛されるためのライフスタイル”で、自立とは経済的に自分一人で生活できることではなく自己中心的な価値観を捨て去ることだという。
おそらく大人になっても「愛されるためのライフスタイル」のままでいる人がほとんどなのではないだろうか。自分も含めて。
最後に”愛する”ということ。
アドラー心理学的な愛するとは、「見返りを求めずにただ献身すること」を指す。
だけど、それが難しい。
どうしたって自分が何かしてやったら見返りを求めちゃうし、せっかくの自分の愛情が拒絶されるのも怖い。
なぜ、拒絶が怖いのか?
アドラー心理学的には、自分を愛していないと他人からの拒絶を恐れてしまうという。
そのため、本当の意味で相手を愛せない。
まずは自分を愛し、それから人を愛する必要がある。
するとどうなるか?
人を献身的に愛し、2人の間に強いきずなと愛情が生まれると…一人称が「わたし」から「わたしたち」になる。
「おれまんじゅうを食べる。うまい。うまい。」から「わたしたちはまんじゅうを食べたよ。おいしかったね」になる。
自分がよければいいんだ!という価値観は、もうそこにはない。
愛を知ること、人を心から愛することは、それ自体が自己中心的な価値観からの脱却になるわけだ。
そう考えると今現在の自分の幸せ度数は自分が幸せにしてきた人の多さに比例するということになる。
公式化するとこうだ。
幸せ度数=人への愛×人数
なぜ、自分が幸せになるのに”勇気”が必要なのか?
それはほとんどの人たちが、こどもの頃に形成した自己中心的で”自分が愛されたい”というレベルの価値観を持ち続けているから。
例えばまんじゅうが3つあったとしてだよ。
「うわ、3つも食べれる!やった!」
と、普通なら思っちゃう。
だけど幸せになるには、他の人たちにもまんじゅうを分け与えなければならない
知っての通り、この世の中は過酷な競争社会であり、明日もまんじゅうが手に入るかわからない。
1日1個食べれば、3日間はまんじゅうを食べて続けられちゃうかもしれない。
それなのに、その大切なまんじゅうを、かけがえのないまんじゅうを、甘くておいし~いまんじゅうを、周りの人たちに無償で差し上げなくちゃならないッ!!
(しかもこの行為に見返りを求めてはいけないし、それは自己犠牲ですらない。自己利益を究極まで突き詰めた結果として「まんじゅうをあげる」という行動となるのだッ!!)
これって、かなり”勇気”が必要だよね。
幸せになる勇気ってのは、こんなことを指しているんじゃないだろうか。
幸せになる勇気=(自分を愛する勇気→人を愛する勇気)=自立する勇気
この公式が指し示すように、「幸せ」と「愛」と「自立」はすべてが繋がっている。
幸せになるには、勇気をもって自己中心的な価値観を捨てなければならない。(それはとてもつらいことだ)
幸せになるには、勇気をもって自分を、そして誰かを愛さなければならない。(自分を愛するには共同体への貢献が必要になる)
幸せになるには、勇気をもって見返りを求めずに献身しなければならない。(博愛主義の聖人にでもなれというのか!)
…このような困難な道を歩むには、やはり”勇気”が必要。
「幸せになる」とは、大きな勇気とたゆまぬ努力が必要な、人生を賭けたテーマなのだ。
アドラー心理学を日常生活で実践するための方法を1行で説明します
幸せ?自立?愛だと!!?
…そりゃあ、スゴイデスネ。
で、どうすればいいんですか??
と、こう思っちゃうだろう。
こんな理想論を聞かされても、私たちの日常でこのアドラー哲学をどう生かせばいいのか?
そのヒントになるような、心に残った一説を紹介したい。
例えば”花が好きだ”といいながら、すぐに枯らしてしまう人がいます。
水をやるのを忘れ、鉢の植え替えもせず、日当たりのことも考えないで、ただ見栄えのいいところに鉢を置く。
確かにその人も、花を眺めることが好きなのは事実でしょう。
ですが、花を愛しているとは言えない。
愛はもっと献身的な働きかけなのです。
「好きであること」と「愛していること」の間には、根本的に大きな違いがある。
”花”を枯らさないようにする。
それだけでいい。
それこそが”愛する”ということなのだ。
自己中心的なライフスタイルでは、すぐに花も枯れちゃうだろう。
でも、しっかりと花を世話してやがてキレイに咲けば、ちょっとは自分を愛せるかもしれない。
この花のたとえはかなりわかりやすいのではないだろうか。
地道に、毎日、大切な花に水をやって世話することが、ひいては”自立”や”自分への愛”や”幸せ”につながる道なのだろう。
昔読んだある本に、こんな一説が書いてあった。
”愛する”というのは”名詞”ではなく”動詞”である。
「カワイイ女性やカッコいい男性しか愛せない」とか「自分に優しくしてくれない人は愛せない」なんてことはあり得ない。
なぜなら、愛は動詞であり具体的な行動だからだ。
相手がこどもだろうが、高齢者だろうが、外人だろうが、いやな上司だろうが、ムカつく姑だろうが関係ない。
自分の個人的な感情とはまったく関係なく、人を愛することは可能なのだ。
まったく、人を愛するってことは、もう修行みたいなもんだね。
というわけでかなりはしょって紹介したけど、「幸せになる勇気」にはいろんなためになることがたくさん書いてあった。
難しいこともあったし、なるほどと思えることも、イマイチわからないことも。
それらを実践して幸せになろうとするとかなり難しいし、内容もいろいろあって全部覚えてはいられない。
だから、ギュギュッとまとめて1行にしちゃう。
「毎日、お花に水を上げましょう!!」
これが私的なアドラー心理学における幸せの神髄、と感じたのだけどどうだろう。
”青年”のぶっ飛んだ暴言もまた見どころのひとつ!
「幸せになる勇気」は「嫌われる勇気」と同じように、哲人と青年の2人が語り合うダイアローグ形式で物語が進んでいく。
嫌われる勇気でアドラー心理学に感銘を受けた青年は、アドラー心理学を掲げて教育の世界に飛び込む。
そこで3年間先生として努力するけど、こどもたちはヤンチャで、まったく苦労ばっかり。
「アドラー心理学なんて幻想に過ぎない!現場ではまったく役に立たない理想論だ!!」
そう思い知り、アドラー心理学を否定するために、再び哲人のもとにやってくるわけだ。
3年間の苦労のたえない教職で、すっかりとすさんでしまった青年の暴言は、はっきりいって「幸せになる勇気」の見どころのひとつ。
それらの暴言を紹介しよう。
いい加減にしろ、この鉄面皮め!!
P70より参照
…こ、この忌々しい毒虫め!!
P114より参照
ふふっ、なんだか先生が哀れに思えてきましたよ。
P137より参照
軽々しく同意するんじゃない、この時代遅れのソクラテスめ!
P144より参照
軽口を叩くな、このサディストめ!
P153より参照
もしもわたしがあと10歳、いや5歳でも若く、これだけの自制心が備わっていなければ、いまごろあなたの鼻骨はこの拳でへし折られていたことでしょう
P165より参照
冗談じゃない!そうやって人の心を操っているつもりか、この偽君子め!!
P204より参照
なにが”人間愛”だ!なにが常識へのアンチテーゼだ!そんな思想など、汚水をすするドブネズミにでも食わせておくがいい!!
P230より参照
みてくれはこんな具合で、女性を前にすると顔を赤らめ、声はうわずり目は泳ぐ。
社会的地位もなければ、財力も持たない。
しかも困ったことに、このひねくれた性格だ。
ははっ、私を愛してくれる人間が、どこにいますか!!
P232より参照
この暴言がたまらなくクセになる!
青年が暴言を吐くたびに、なんか笑っちゃう。
…なんちゅうか、人生に疲れすぎです。
さらにすごいのは、そんな青年の暴言もさらりとかわして会話を続けちゃう哲人。
このスルー能力もまたスゴイ!!
青年のひねくれた性格もまた、幸せになる勇気の面白いところ。
まだ読んでない方は、是非とも一読してみよう!!