最近の若い成功者を見ると、自分よりも年下なのに自分よりもめちゃくちゃ頭がよくて、そりゃあ成功するよなって感心しちゃう。
そんな「頭のいい人」の成功が昔よりも遥かに多くなってきた半面、「頭の悪い人」の不幸もまた明確になりつつある。
昭和の時代は「知識を持つこと」が重要だった。
平成の時代は「知恵を持つこと」が重要だった。
そして現在、令和の時代は「知能の優劣」が今まで以上に重要視され、それは大きな格差につながっていくのではないだろうか。
わたしが個人的に考える知識と知恵と知能の違いがこちら。
知識:知っていることがら
知恵:知識を使って恵みを作り出す能力
知能:知識や知恵に対する生まれつきの能力
知識はただ情報を知っていることであり、今となっては「ネットで調べればすぐにアクセスできる情報」をただ丸暗記しているだけにすぎなくなっている。
ネットが一般的に普及した今、相対的に個人の知識量の重要性は低下している。
昔は尊敬された「知識豊富な老人」が今では尊敬されないのも、ネットで圧倒的な情報に手軽にアクセスできるからだろう。
知恵は「知識という道具で結果を生み出す能力」と言っていい。
知識を踏まえた具体的な行動であり、創意工夫やアイデアを思いついたり現実化する能力。
知識をひけらかしてマウントをとる人間が滑稽なのは、知識に対して知恵が伴っていないから。
逆に優れた知恵をもっている人は、たとえ知識が少なくても満足のいく結果を得られる。
知能は知識や知恵に関する能力のことであり、脳の機能に大きく左右される生まれつきのものだ。
史上最速の男ウサイン・ボルトと同じ練習メニューで努力しても、ほとんどの人間はあれほどのスピードで走れない。
それは人種、体格、環境などの生まれつきの差があるから。
同じように知能にも圧倒的な覆せない個人差がある。
同じように勉強しても、同じように経験しても、そこから得られる知識や知恵にはすごく個人差があるわけだ。
…で、ここからが問題。
黒人差別とか、ジェンダー問題とか、ルッキズムとか、世の中にはいろんな差別に対する議論や活動がなされている。
実際に社会はそういった格差を平等にする方向に、少しずつだけど動いている。
だけどそういった問題提起に「知能の格差」は含まれていない。
昔に比べてみると、人種差別問題は少なくとも拡大はしていない。
あからさまな男女差別もなくなりつつある。
学歴による差別も昔に比べればマシになっているだろう。
受験戦争だって昔よりは危険じゃなくなってるし。
そんな風に格差がなくなっていくとどうなるか?
自然と、大なり小なり実力主義の社会になっていく。
すると生まれつきの知能が重要になってくるわけだ。
平等な社会の中で、実は知能の格差だけは拡大し続けているのではないだろうか?
本当に頭のいい人間は、簡単に起業できるし、ネットを使って成功できる。
小説や芸術作品を世の中に広く発表する機会も無数にあるし、ユーチューバーになって大儲けもできる。
ネットが普及し、知識の重要性が低下したことで、相対的に知恵の重要性が増した。
さらにネットが拡大し、誰もが可能性とチャンスを掴みやすい状況になった結果、知恵よりも知能が重要になってきた。
そんな感じがする。
問題は生まれつきの知能の優劣が、見た目ではもちろん、知能テストなんかでもまったく判別できないってところにある。
知能が高い人間は10代の頃から親よりも高収入になっちゃうことだって可能だし、よい人間関係を築き幸せな人生も遅れちゃう。
だけど生まれつき知能が低い人間は、知能が低いというデメリットを抱えて、誰にもサポートされずに苦しみ続ける。
知能が低いので映画や小説や漫画も十分に楽しめないし、もちろん人間関係も上手くいかない。
脳と密接な繋がりがある手先も不器用だし、記憶力もないし、注意力もない。
そのくせ、発達障害の範囲にも入らない。
その結果、平均的に収入が低くなったり、孤独になりやすくなったりで、犯罪に繋がったりもするはず。
ではどうすればいいのか?
これはもう、「知能の見える化」をするしか手立てがない。
脳をCTスキャンしたりして、脳の機能を明確に割り出し、脳力値を出す。
そうして脳力値が低すぎる人には手厚いサポートを…
な~んて考えるだけでいろんな問題が各方面から噴出するのがわかる。
それに知能の格差を是正するって、社会全体を考えるとメリットがあるのかもわからん。
まあ、昔よりもいろんな選択肢がある現在は、たとえ知能が高かろうが低かろうが、「満足のいく自分らしい人生」ってやつを選びやすくなっているのは確かなのかもしれない。